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風林火山と千見城
築城
千見城は天文11年(1542)に村上勢の大日方氏によって、堀の内、飯田(白馬神城)と同時に築城した、と法蔵寺誌と大日方由緒書を根拠に小川村誌が推定している。
初代城主は大日方直康で弘治元年の戦いに敗れ歿した長辰は弟(大日方氏系図)で、堀の内城の勘助、飯田城の佐渡守は甥である。
この間武田氏は信濃攻略を破竹の勢いで進めていた。
大日方氏も仁科氏と共に村上義清勢として武田と戦っている。
天文18年には安曇の小笠原長時氏が追われて村上氏に頼る。
天文19年には村上軍としてその小笠原長時が武田軍を破ったこと(野々宮の戦)がある。その頃上杉景勝が川中島に進んだことが影響したとの記述が北安曇郡志にある。
天文20年に武田方はその小笠原長時を馬場氏と後に千見城を攻める山縣昌景を派遣した。小笠原氏の下を離反するものが多かった。
その後小岩嶽城の攻防は激しかったが500人の死者が出て、武田軍が勝利した。
天文21年に小笠原氏は圏内の将氏はほとんど武田方になったため親族等と川中島から越後の上杉氏を頼る。森城を落とされた仁科氏も武田方に。(その後武田の歿後に小笠原氏は復活する。)
弘治元年
春昌景積雪の消ゆるを待ち兵を率ゐて東に出で大日向長辰を千見城に攻めて之を殺し転じて四ヶ庄に入り長辰の族大日向勘助を城(堀の誤植?)の内城に大日向佐渡を飯田城に飯森春盛を飯森城に攻む勘助佐渡夜に乗じて出奔し獨り春盛城守す昌景攻むる事一夜遂に之を抜く・・・
天文23年(弘治元年の前年)6月仁科盛政武田氏に従ひ川中島に出陣8月18日甲越の軍に参加す
弘治元年5月仁科盛政武田氏に従ひ川中島に出陣7月19日犀川合戦に参加す
(いずれも北安曇郡志、大正12年3月31日発行より)
「風林火山」の時代、千見城は戦略上の要点だったらしい。
- 天保9年になって千見の村人が、大日向長辰の菩提を弔う墓標を千見城本丸跡に建て、現存する。
- 昌景は「山縣昌景」(武田の武将)のこと、千見城攻めの前に安曇地方を攻略してきた。 -- 2007-02-02 (金) 09:37:16
千見城主、大日方直長
本格的な史跡紹介に先駆けて、
当時の城主の記事より転載
川中島で戦った大日方氏の武具など小川に (2007/1/20 信濃毎日新聞掲載)
小川村教育委員会は2月12日まで、川中島の戦いで武田勢に加わって戦った大日方氏の子孫に伝わる品々を紹介する「大日方家『坊』の歴史」を開いている。当時のよろい、かぶと、家紋入りの酒器、火消しの装束など約70点で、同村小根山稲荷の農業、大日方悦雄さん(72)が村教委に寄贈したのを受けて企画した。
同村の大日方姓は、かつて松本地方一帯を支配していた小笠原氏一族の一人、小笠原長利が16歳の時、現在の小川村の地で「大日方長政」と改名したのが始まりとされている。
村教委によると、小川村には長政の流れを受け継ぐ家が3戸あり、展示品は長政の孫で千見城(大町市美麻)城主だった直長のゆかりのものとみられる。
1564(永禄7)年に、戸隠神社周辺の僧侶78人が上杉勢の攻撃から逃れ、直長を頼って小川の地へ来たと伝えられている。その故事により、直長直系の悦雄さんの家は現在も村内で「坊」と呼ばれているという。
展示見学に訪れた長野市戸隠の大日方保子さん(60)は「丸の中に2本線の二引両の家紋は、私の家と同じ。何かつながりがあるのかも」と話していた。入場無料。
【写真説明】大日方悦雄さんが小川村に寄贈し、展示されている大日方家に伝わる「家宝」